【華頂博一(岡崎祐一)とは何者か】

 〜謎の殿下系YouTuberに迫る〜

殿下27 設定前の設定?

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 さて、ニセ華頂殿下のひいじいさんと言えば伏見宮博恭王殿下というのは、あくまでも「設定上での話」であることは以前の記事でも述べた。ほんとうの曽祖父の名前は「岡崎卓伍」であると思われる。

 

kachyou-fake.hatenablog.com

 

 今回はニセ華頂殿下が華頂博一になる前の本名、岡崎祐一として某SNSに投稿した文章を元に検証してみようと思う。今から約7年前、2016年7月の投稿だ。まずはご一読を。

 

 ここでも曽祖父を岡崎卓伍としている。これで完全にニセ華頂殿下の曾祖父さんは伏見宮博恭王殿下ではなく、岡崎卓伍だと確定していると言っていいだろう。なにせニセ華頂殿下ご本人が書いているのだから。そしてこの文章には突っ込みたいところが数多くある。ここら辺の旧軍にお詳しい方ならあれれ?と思われるだろう。

 

 まずは海軍"大"学校についてだが、場所は広島ではなく、現在の東京都品川区上大崎にあった。広島にあったのは江田島の海軍"兵"学校である。巡洋艦日進の「機関小官」と書かれているが、正しくは「機関少監」であろう。これは階級的には海軍少佐相当で、艦船の蒸気機関の運用と保守整備などを専門にするプロ集団の階級である。大正4年からは「機関少佐」と改称されている。明治時代の蒸気機関に関わる人員は兵科とは別で、軍医などと同じ「乗組文官」という扱いだったのである。兵科と階級統合されるのは遅く、もっと後なってからである。

 

 続いて「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」でおなじみの優秀な海軍軍人、秋山真之(さねゆき)についてだが、海軍大学校の校長だった事実はない。明治35年に海軍大学校の戦術教官となっているが校長ではない。当然、海軍"兵"学校の校長であった事実もない。wikiに歴代校長が掲載されているので確認されたし。

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 つづいて「広島陸軍38連隊」について。いわゆる「歩兵第38連隊」の事だと思われるが、サンパチ連隊本部が広島を拠点にしていた事実はない。ご存知のように連隊とは軍隊の編成における作戦単位で、帝国陸軍の場合は平時と戦時ではもちろん違うが、上位から総軍>方面軍>軍>集団>師団>旅団>団>連隊>戦隊>大隊>中隊>小隊>分隊のように階層化されていた。サンパチ連隊は明治29年に滋賀の大津で結成され、以降は京都、大阪、奈良と本部を移転し、隷属先もコロコロ変わっている。宇品で仮泊したことはあるようだが、基本的に広島とは無縁である。38師団の書き間違えか?とも思ったが、38師団は名古屋であるし、普通は軍隊に入隊すると言えば赤紙で徴兵されて地元の連隊に所属する事の意味だろう。

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 以上のように、書かれている内容がテキトーすぎて困惑してしまうわけである。

 

岡崎伍について

 さて、ニセ華頂殿下が曽祖父と書いている岡崎伍(たくご)なる人物だが、実は似た名前で海軍中将まで上がった岡崎伍(ていご)なる人物が存在する。岡崎貞伍中将の軍歴を略記してみよう。

明治4年9月20日 現宮城県南郷町、岡崎七郎太の三男として誕生

明治24年 海軍兵学校入学(第二期)

明治28年 海軍兵学校卒業

明治31年 少機関士 アメリカ出張

明治32年 中機関士 巡洋艦「吉野」勤務 海軍機関術練習所教官 イギリス出張

明治37年 巡洋艦「日進」機関分隊長

明治38年 機関少監 黄海海戦、日本海海戦に従事

明治41年 機関中佐

大正3年 機関大佐

大正8年 機関少将

大正10年 舞鶴工廠長

大正11年 佐世保工廠長

大正12年 機関中将

大正13年 海軍中将 海軍機関学校校長(舞鶴)

大正14年 予備役編入

昭和13年 退役

昭和17年 70歳没 正四位、勲二等、功四級

 

 どうだろうか、ニセ華頂殿下が曽祖父だという「岡崎たく伍」の経歴にあまりにも似てはいないだろうか?

岡崎たく伍 海軍""学校卒 巡洋艦日進 機関少監 対馬沖へ、、、

岡崎てい伍 海軍""学校卒 巡洋艦日進 機関少監 対馬沖へ、、、

対馬沖とは言わずもがな「東郷ターン」でロシアのバルチック艦隊を破った「日本海海戦」のことである。

 

 こんな事ってあると思う?w

 

 そんなワケあるか!!wwwww これはどうやら華頂博一になる前の岡崎祐一が曽祖父を岡崎海軍中将と重ねて妄想してしまった結果なのか? いや、岡崎貞伍は中将とは言え元は機関士でマイナーゆえ知名度も低いから、祖父の岡崎秀夫さんが嘘を岡崎祐一少年に教え込んだ結果ではないだろうか? というわけでどうやら「岡崎卓伍」という名前さえも事実かどうか怪しくなってきた。

 

 ちなみに岡崎てい伍は自民党の政治家だった岡崎英城の父親である。もちろん血縁を探ったが、当然ながら岡崎秀夫、岡崎博祐などは存在しなかった。

 

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 いかがでしたでしょうか皆さん。いずれにせよ。これでニセ華頂殿下と伏見宮博恭王殿下には何の関係もないことがハッキリ証明できているのではないでしょうか。明治40年5月10日の官報をご覧ください。明治天皇と伏見宮博恭王殿下、そして機関少佐時代の岡崎貞伍が同席しております。これで岡崎貞伍=博恭王殿下は偽名とかではなく完全に別人であると証明されました。

 

大正6年の「中央之旧仙台藩人譚」より 岡崎貞伍の記事

 

あまり関係ないが佐世保工廠長時代の書類

 

ちなみに岡崎中将は予備役編入後に川北電気製作所(現パナソニック エコシステムズ)や、今も続く住友系の日新電機に入り代表取締役会長を努めた。


 そもそもニセ華頂殿下は祖父を華頂博信としているはずだが、この投稿を見ると「秀夫」となっている。華頂博信は海軍で最終的に海軍大佐まで上がった元皇族のエリート軍人である。そんなやんごとなきお方が広島で「陸軍」に徴兵されて二等兵で最前線に行ったと。これはもう話が破綻しておりますね。これでもまだニセ華頂殿下は本物だと言う人がいるとしたら完全に頭がおかしいですよ。よくお考えください。

華頂博一(岡崎祐一)は旧皇族とは血縁のないニセモノだと確定しております。