【華頂博一(岡崎祐一)とは何者か】

 〜謎の殿下系YouTuberに迫る〜

殿下030 鞆の浦

注:このサイトはブログという性質上、最新記事が常に上位に来ます。一気読みしたい方は記事番号殿下01から順にお読みください。


 


 さて、ボルタレン祐ことニセ華頂殿下が事あるごとに話題にする広島県福山市の「鞆の浦」について少し研究してみよう。鞆の浦と言えば、ニセ華頂殿下の華頂博一こと岡崎祐一さんの祖父が生まれたところである。「旧皇族設定」では祖父は華頂博信(皇族時代は伏見宮博信王)としているが、実際には岡崎秀夫というただの一般人であることは私が今までに暴いてきた通りである。というか過去にニセ華頂殿下が自分で何度もSNSに書き込んでしまっているだけなのではあるがw

 

 伏見宮博信王の出生地は当然ながら鞆の浦のワケがなく、東京の三田にあった華頂宮邸である。ここは現在の港区立亀塚公園で、宮邸当時の外壁と井戸跡が現在でも残されている。江戸時代は清和源氏の沼田藩土岐家の下屋敷があった土地で、明治に入ってから華頂宮邸となった。当時は海っぺりの台地であり、天気がいいと房総半島まで見えたそうだ。

港区立亀塚公園 外壁は華頂宮邸当時の物 現在は塗装されて綺麗な白壁になっている

 

 明治6年に華頂宮2代目の博厚親王が8歳で薨去すると、当時の伏見宮家の庶子で当主の貞愛親王の第一子ではあるが王の身位すらなかった(皇族ではなかった)9歳の愛賢(なるかた)に、明治天皇の特旨によって華頂宮の相続が申し付けられた。愛賢少年は父親の伏見宮貞愛親王が正式に有栖川宮利子女王と結婚する前にお手伝いさんとの間に出来ちゃった子供なのだ。これを受け愛賢少年は華頂宮風の博恭に改名し、王の身位を賜って皇族となった。そして紀尾井町にあった伏見宮邸からこの三田の屋敷に引っ越し華頂宮3代目当主となったのである。

 この屋敷で明治30年1月に23歳で徳川慶喜の九女、経子と結婚して子どもたちを生んだ。生まれた順に明治30年12月博義王(ご存命の伏見博明さんの父)、同31年11月に恭子(やすこ)女王、同35年1月に博忠王(華頂宮4代目)、そして明治37年に伏見宮家の次期当主予定だった邦芳(くにか)王が病気のため廃嫡になると、博恭王、経子妃、博義王、恭子女王が本家の伏見宮家に復籍、華頂宮家は2歳の博忠王に継がせたわけである。伏見宮家に復籍はしたが、当時麹町区の紀尾井町にあった伏見宮邸に引っ越しをした訳ではなく、今までと変わらずご一家でこの三田の屋敷に住み続けていた。まだ伏見宮家当主の父、貞愛親王がご存命中であり、寝たきりの邦芳王と一緒に伏見宮邸に住まわれていたからである。正式に博恭王が伏見宮家の当主となるのは大正12年に貞愛親王が薨去し、博恭王が49歳の時のこと。

 そして明治38年5月22日に博信王が誕生するが、もちろん三田の華頂宮邸でである。明治時代はまだ自宅出産が当たり前なのだ。なのにニセ華頂殿下は博信王が鞆の浦で生まれたと言っている。これは祖父の岡崎秀夫さんと博信王をどうしても同一人物にしなければ旧皇族の設定が破綻してしまうためだろう。

 

ニセ華頂殿下のフェイスブックより

 「手書きの青ずり」とは祖父の戸籍謄本がジアゾ式のいわゆる「青焼き機」のコピーだったって事だろう。ちなみに「ガリ版」の事ではない。複写機が普及するまでは戸籍の写しを取得する場合は基本的に手書きである。原本を見ながら担当の役人が手書きで専用の戸籍用紙に記入し、別の役人が校正して一語一句相違なければ首長の印を押して発行する。なのでとても時間のかかる仕事だった。戸籍の原本自体が古くて活字化されておらず、毛筆の場合もあるから漢字の間違えなどもあっただろう。

 複写機での謄本作成が政府の通達で正式に認められたのは実は昭和26年と遅く、卓上の青焼き機(いわゆるコピア)が役場に普及してからのことである。地方にも普及したのは昭和30年以降なのでニセ華頂殿下が所持している戸籍はおそらく発行日が昭和30年以降に複写された謄本ということだろう。ゼロックス式のいわゆる「コピー機」が役場で使われだして青焼き機と入れ替わるのは昭和50年代だ。ランニングコストの面で青焼機はもっと後年まで現役であった役所も多い。今ではマイナンバーカードがあればコンビニのコピー機で簡単に戸籍謄本が取れてしまうのだから素晴らしい時代だ。(参考資料:戸籍事務近代化への道を語る 複写機から戸籍電子化への展望)

↓原本を見て手書きした戸籍謄本のイメージ(新渡戸稲造の)役人の字が汚いと最悪w

 

 


 おっと、鞆の浦からだいぶ話が逸れてしまったので元に戻そう。ニセ華頂殿下が以前にご自分で某SNSに記入していた祖父岡崎秀夫さんの戸籍住所は広島県沼隈郡 鞆町字後地 994番屋敷」である。現在の鞆町後地(うしろじ)の番地からすると、ちょうど備後安国寺の裏手の高台に当たる地域ではないかと推測する。

 

土地が低い右側が備後安国寺 左側が994番屋敷があった場所か?

 先日の生配信でニセ華頂殿下が戸籍について熱く語っている部分があるので紹介する。51分あたりから56分くらいまで。まずはご覧ください。

www.youtube.com

 アンチの人は嫌いじゃないとは私のことかな?w 私もユウちゃんは大好きだよ〜 慈愛に溢れていろんな才能があって、何よりお話が面白いからね! 「信者」のみなさんの誰よりも殿下に興味を持ってを調べ尽くしておりますよ! でも一緒にはやりませんぞ! おい、ソイちゃん笑えよww

 

 「うちのおじいちゃんの出生地に今の今上陛下の植樹があるよ」と言っているが、それはこのページの冒頭に貼った写真のことである。この植樹は今上陛下がまだ皇孫の浩宮殿下だった頃、学習院大学の卒業論文執筆のために瀬戸内海各所を訪問した際に備後安国寺に立ち寄った時の物である。浩宮殿下の卒論は「兵庫北関入舩納帳」の一考察 〜問丸を中心にして〜 である。原文はネットに公開されているので誰でも読むことができる。「問丸・といまる」とは今で言う運送流通販売を一手に引き受ける業者のこと。現代の3PLの江戸時代版みたいなもんです。流石、我らの天皇陛下はお書きになる文章も気品にあふれていらっしゃる。

www.jstage.jst.go.jp

 

 

 で、この植樹が岡崎秀夫さんの出生地のすぐ近くにあるということが何の証明になるのだろうか?浩宮殿下は卒論執筆という明確な目的を持って鞆町にお出ましになられておられるのだ。それに皇室の方々の植樹は全国に膨大にあるし、備後安国寺の植樹が何か特別な意味があるわけでもあるまい。亡くなった祖父秀夫さんからの口伝もあるだろうが、ニセ華頂殿下はこの植樹と祖父の戸籍住所の近さに何か特別な因縁を感じていつもの拡大解釈をしてしまったのだろうと容易に想像ができてしまうのである。

ミスター都市伝説 落タクスゼイアン落合莞爾先生と

 それと小松宮には鹿島という戸籍があったとかぬかしやがっているが、そんな事実は当然ながらない。当たり前のことだが皇室皇族は臣民ではないのだから戸籍がない。皇統譜皇族譜によって政府が管理している。それに小松宮家は幕末から明治36年まで生きた彰仁親王ただ一代で断絶している。彰仁親王が鹿島っていう苗字で戸籍を持っていたって言ってるのですか殿下? 現役の皇族が戸籍を?? 免許を取るため?w 家を買うため?w アホかい! 証拠を出しなさいよ証拠を! これなら殿下の出自と無関係なんだから証拠を出せるでしょうよ! そんな証拠はないんだよ! ふ〜〜

 ちなみに臣籍降下して鹿島姓を賜った元皇族の方はいる。山階宮晃親王の王子、萩麿王が昭和3年に鹿島伯爵家を興している。皇族から華族に降りれば臣民の身分であるので当然戸籍は付与される。

 

 ニセ華頂殿下が何をもってそんな馬鹿げたことを公言しているのか?それはもちろん祖父の秀夫さんから嘘を教えられたか、殿下が考えた妄想だろう。なぜなら宮内庁にも「彰仁親王に鹿島の姓で戸籍を下賜する件」、、、、とかいう文書は存在しないのだから。「もう言ってもいい時期かな」とかそういう言い方はもうやめませんかユウちゃん。オカルトバカはだませても教養のある普通の人たちはだませませんよ!