【華頂博一(岡崎祐一)とは何者か】

 〜謎の殿下系YouTuberに迫る〜

殿下13 博恭王の原爆解体

注:このサイトはブログという性質上、最新記事が常に上位に来ます。一気読みしたい方は記事番号殿下01から順にお読みください。


 

 日本に落とされた原爆は実は3発あり、うち一発が不発弾だったという都市伝説や、日本製の原爆はすでに完成していたという都市伝説は実は昔から噂されている。いずれも正史ではなくあくまでも噂の域を出ていない。

 

まずは話を理解するためにこちらを視聴していただきたい↓

www.youtube.com

 

 なんと伏見宮博恭王が長崎で原爆を解体していたそうだ。これが事実であればなかなか興味深いし、話のストーリーとしても良くできている。ソ連にインプロ―ジョン(爆縮)の技術を渡してソ連製原爆の完成を早め、日本が冷戦構造の完成に一役買っていると。この話、おそらくソ連側からの証言は出ていない気がするがどうだろうか?

 

 チャンネル桜の水島さんに華頂殿下がSNSで抗議した文が残っている。ただし「世を忍ぶ仮の名前」で。なので今は名前は伏せる。

 

 

この後に祖父と父の戸籍名も書かれているが今は載せない。

 

これが元ネタのいわゆる例のやつ

 この件を扱ったブログ類はいくつもある。ご存じの方は読まないでもいいが、基礎知識がない方は一読して概要を知っておくといいだろう。

 

kakuyomu.jp

shopworld.cocolog-nifty.com

iwanatrout.blog101.fc2.com

books.google.co.jp

 

agora-web.jp

 

国会でもこの件は審議されたのでご記憶にある方も多いだろう。衆議院外務委員会での議事録を貼っておく。長いが、中盤で松原仁先生が高村外相に質問している。

www.shugiin.go.jp

 

 さて、私にとっては原爆の都市伝説などは、あろうがなかろうが実はどうでもいい。私にとっての興味は伏見宮博恭王の「原爆解体」である。華頂殿下によると博恭王は脳卒中と偽り長崎に保管してあった原爆を解体しに行ったと語っているのである。もちろん、昭和34年生まれの華頂博一氏と、昭和21年に薨去した博恭王では一緒に生きている時間はないのだから、祖父の華頂博信からの伝聞である。

 

 当然原爆を一人で解体できるわけもなく、運搬するチーム、専門的な核物理学者のチーム、当時実際に日本製の原爆開発していたチームなど総勢数十名いなければなし得ない仕事だと思われる。実際にその仕事に携わった人たちからの証言も出ていない。人は死ぬ前に真実を誰かに打ち明けるものではないか? 黙って全員が墓場まで持っていくのか? 私にはそうは思えない。秘密は関わった人数が多いほど漏れるものである。

 

 正史では博恭王の終戦前後の足取りは以下の様になっている。

 

 博恭王は昭和19年末頃に、脳出血を起こし心臓の病も抱えながら熱海の伏見宮別邸で療養生活を送っていた。敗戦直後に病躯をおして上京し、戦災で焼失した伏見宮邸近くの旅館「福田屋」で生活を送った。その後、上大崎にあった三条公爵の邸宅を買って移住。昭和21年8月16日にそこで薨去した。薨去したその日に昭和天皇が弔問に訪れた。8月21日に豊島岡墓地で葬儀が執り行われた。死亡時の様子などは博明殿下の口述書に詳しく書いてある。↓

 

 【旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて―伏見博明オーラルヒストリー】より抜粋

博明王が祖父の博恭王の薨去の様子を証言している。遺体があり、昭和天皇が来たと。

 

 ニセ華頂殿下の証言では、博恭王は東京では亡くなっておらず、実際は佐世保で薨去したらしいのだ。佐世保から東京まで遺体をどう運んだのだろうか 14歳の博明殿下はこの事をご存知だったのだろうか。

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宮内庁文書でもやはり公式には上大崎の旧三条邸で亡くなっている
ニセ華頂殿下のウソがここでも白日のもとに!

 

死亡診断書に当たる拝診書
佐世保で死んだのなら日時などは申し合わせて都合よく改変されているのだろう