【華頂博一(岡崎祐一)とは何者か】

 〜謎の殿下系YouTuberに迫る〜

殿下25 曽祖父の名前がバレてしまうw

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 いえーい、ニセ華頂殿下とその信者ども、見てるぅぅ〜?

さてさて、ここに来てニセ華頂殿下の曽祖父の名前を私が知ることとなった。おっと、言っておくがもちろん伏見宮博恭王殿下のことではない。これはもう決定的な情報で、ニセ殿下の妄想もここらへんでそろそろ終わりだろう。はい、おしまーいw

 

 ニセ華頂宮バカ殿下博一こと岡崎祐一だが、彼はすでにネット上で自らの実名と祖父の名前を公表しているのは、私がこれまでに暴いてきた通りである。父が岡崎博祐、祖父が岡崎秀夫である。先日Xのフォロワー様が下のような文章の画像を貼ってくれた。2016年にニセ殿下が某SNSに投稿したものと思われる。ここでニセ華頂殿下が曽祖父の名前を出している。

その名も岡崎卓伍 やるな!曾祖父さんww

 

 

ニセ華頂殿下の「旧皇族なりすまし設定」では、

父・華頂博祐

祖父・華頂博信(臣籍降下前は伏見宮博信王のち侯爵)

曽祖父・伏見宮博恭王(愛賢王=華頂宮博恭王)

のハズだった。ところが2016年、まだニセ華頂殿下が旧皇族のなりすましを具体的に考えていなかった頃に曽祖父の武勲を自慢気に某SNSに書いてしまっているのである。これはもはや決定的であろう。

 

 実はこの文章の出典についてはまだ詳細は明らかでないが、閲覧制限のかかっている某SNSとのことだ。内容について解説してみよう。

 

 この文章は日付からも分かる通り、1905年(明治38年)5月27日〜28日に対馬沖で行われた日露戦争におけるロシアのバルチック艦隊と日本の連合艦隊の交戦である「日本海海戦」についてだ。歴史に関しての詳細は省くので、日本海海戦に明るくない方は各自wiki情報など参照されたし。

ja.wikipedia.org

 

 まず、決定的な事項として、ニセ華頂殿下が曽祖父としている伏見宮博恭王殿下は、この海戦時点で巡洋艦「日進」の乗組員ではないし、日本海海戦にも参加していないのだ。当時の博恭王殿下の年譜を添付する。出典は博恭王マニアには経典とも言える昭和23年7月発行の「博恭王殿下を偲び奉りて」である。上の欄が明治の年数、次の欄が博恭王殿下の当時のご年齢、その下の欄が日付である。明治36年に戦艦三笠の分隊長に就任しているのがわかる。(後部30センチ砲塔担当の第三分隊 艦長は東郷平八郎海軍大将) のちに海軍中佐に上がり、日進の副長として乗艦するのは翌明治39年11月のことである。

 ところが博恭王殿下は日本海海戦より前の1904年(明治37年)8月10日に勃発した日露間の「黄海海戦」にて負傷してしまう。公式にはロシア軍からの被弾とされているが、実際は砲身内で砲弾が爆発してしまう事故だった。至近距離にいた博恭王殿下はその衝撃で肋骨を骨折してしまう。以下に博恭王殿下ご自身による感想文の部分を掲載しておく。さすが博恭王殿下は某バカ殿下と違い一流の文章をお書きになる。

 

ja.wikipedia.org

 

 この負傷が元で、博恭王殿下は日本に戻り静養する。そして一旦軍艦を降り明治37年10月5日に出来たばかりの大本営に「大本営附海軍省軍務局局員」として勤務することになるのだ。皇族といえどまだ30歳のたかだか少佐で、上官が山のようにいる状態である。そこに明治天皇から韓国皇帝への使者として博恭王殿下に御沙汰が下り、韓国に出張しているのである。期間は明治38年5月14日〜6月16日で、日本海海戦のあった5月27、28日はインチョン(仁川)で待機していると明記されているのがわかる。これが正史である。

 

【当時、博恭王殿下は韓国仁川にいて

日本海海戦には参加していない】

 

 ではここでもう一度例の文章を見てみよう

 有名な秋山真之中佐(当時)が起草した電文を引用するなら「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」であるが、さすが我らのバカ殿下は何でも間違えて覚えるプロだ。期待を裏切らない。青雲〜それは〜君が見た光〜ってか?ww

 

 で、突っ込ませてもらうと、5月27日の深夜に佐世保出港とか書いているが、何をノンキなことを言っているのかw 巡洋艦日進を含む連合艦隊は当該海域の制海権を完全に掌握しており、韓国の鎮海湾内に分散して待機していたのだ。そして出港を始めたのは朝6時頃である。こうなってくると、岡崎卓伍の日記を見てこの文章を書いたわけではなく、もう完全にニセ殿下の妄想だと言うことが判明してしまうのである。

 

 岡崎卓伍なる人物は、国立国会図書館で検索しても一切ヒットしない。当然帝国海軍士官名簿にも載っていないし官報にも出てこない。ということは海軍幹部ではないワケで、階級は少尉未満ということである。(当時は少尉に任官されると正八位の位階をもらえた)明治38年当時の帝国海軍の階級でいうと、一等兵曹か二等兵曹(下から二番目)というところだろう。ニセ華頂殿下が妄想してる博恭王殿下の当時の海軍少佐とは雲泥の違いである。「巡洋艦日進を操り」と書いているが、そもそも博恭王は砲術のプロであり、操艦には一切関与しないのである。ブリッジに行くことすらほぼなく、砲塔が担当部署なのである。そして艦長(大佐)の代理たる操艦担当士官ならまだしも、兵曹ごときが巡洋艦を操舵するなどあり得ないし、そもそもブリッジにいることすらあり得ない。完全な妄想である。

 

 これを言うとニセ殿下は「岡崎は偽名」と言い逃れするだろうが、博恭王殿下が岡崎という偽名を使った履歴は一切ない。確かに偽名を使う皇族は存在した。竹田宮恒徳王の「宮田参謀」や三笠宮崇仁親王の「若杉」、朝香宮鳩彦王の「朝伯爵」などが知られているが、上記のようにそもそも博恭王殿下はその日、日進に乗っていないのだ。

 

 ドメック・ガルシアについてはアルゼンチン海軍の大佐で、いわゆる観戦武官である。巡洋艦日進はイタリア製でアルゼンチン海軍が購入した後に日本に売却した中古巡洋艦で、アルゼンチン海軍在籍時は「モレノ」という艦名だった。山本五十六(当時は高野五十六海軍少尉候補生)も乗艦していたことは間違いない。これは事実だ。

ja.wikipedia.org

 

 はい、ということでニセ華頂殿下のウソももうここまでかな。もう言い逃れは不可能。精神的に病んでいた時期があり、自分の父、祖父、曽祖父を伏見宮の皇族と重ねてしまう妄想に取り憑かれ、いつしか本気でそう思い込むまでに至り、断絶している華頂宮を名乗ることを思いついたのであろう。いや、不都合なことには本能的に目をつむり本気でそう信じ込んでしまったのではないだろうか。病気であれば仕方がないことだ。

 

 そしていつしか華頂博一と名乗りはじめ、倫理法人会などに積極的に参加し、各方面に人脈を広げて会う人たちを信じ込ませていったのだろう。その過程で「系図に載ってない怪しい人物」だと感じた人も少なからずいたはずである。でもバレなかった。そしてYouTubeで華頂宮チャンネルを開始すると思ったより疑念の声がなく好評になっていった。華頂博信との逸話を創作捏造し、ニセモノだと疑う人はブロックし、出自に関する質問にはスタッフぐるみで回答をはぐらかし続けてなんとか今日までやってきた。

 

 そして今年、コヤッキースタジオやTOLAND VLOGに出演すると、その反響は凄まじく、何でも信じてしまうオカルトバカたちを何万人も虜にしていった。そしていつしか自分が思っていたよりも大きな影響力を持つようになり、本当の自分を披瀝したり戸籍の開示などとても出来ない、後戻りができない状況にまでなってしまった。これは周辺の持ち上げた人物たちも悪い。利用するだけ利用して使えなくなったら岡崎さんを捨てるのだろう?

 

 虚言癖や妄想は立派な病気であり罪はない。しかし、周囲を騙して血縁もないのに旧皇族を名乗り続けるのはやはり罪であるし、正統な華頂家の子孫たちや皇室に対する侮辱でもある。そしてなにより皇室を敬愛する多くの日本国民への侮辱である。

 

岡崎祐一さん、もう終わりにしないか?

 

 すべてを白状して都市伝説テラーの岡崎祐一として、旧皇族の冠を外して今後の活動をするか、完全に身を引くことを私は強く望む。あなたにはもうすでに多くの固定ファンがついている。あなたがご自身の病状と今までの詐称を披瀝してもファン層は恐らく大きくは変わらないだろうし、逆に評価が上がりファンも増えるだろう。喧嘩イベントの「ブレイキングダウン」での所沢のタイソンみたいなもんだ。(喧嘩3000戦無敗を自称していたが、49歳のごぼうの党の奥野さんに数十秒で負けた。しかし試合後に評価と人気が爆上がりした)

 

 もうここまで証拠が出てしまったら、これ以上華頂博信の孫とか旧皇族を自称するのは流石にもう無理があるよ。今のまま警告を無視して活動を続けるのであれば、マスコミの取材攻勢にも晒されるだろうし、それこそ有料講演会を理由に詐欺罪で逮捕起訴されるだろう。岡崎さんの周辺にいる人たち、あなた方はどうなんだ? 本当のことを恐らく知っていながら岡崎さんを利用して食い物にしていないか? 今後の岡崎さんの人生を真剣によく考えて最善の行動をしてほしい。

 

以上