【華頂博一(岡崎祐一)とは何者か】

 〜謎の殿下系YouTuberに迫る〜

殿下04 華頂博信とは?

注:このサイトはブログという性質上、最新記事が常に上位に来ます。一気読みしたい方は記事番号殿下01から順にお読みください。

 


 

 さて、いよいよ殿下系YouTuberことニセ華頂殿下のお話によく登場する「おじいちゃん」こと華頂博信について書いていきたいと思う。伏見宮家の博信王が大正15年に臣籍降下して皇族の身分を離れ、華頂の姓を賜り侯爵に列せられ華頂博信なった。そのため戦争中は皇族ではなく華族の身分であり、敬称も殿下ではなく閣下となる。

 臣籍降下後に21歳で閑院宮載仁親王の娘である華子女王殿下とご結婚。後に離婚するが博道、博孝、治子の二男一女をもうけた。

 

大正14年7月14日海軍兵学校(53期)を卒業

海軍大尉時代の華頂博信閣下

閑院宮華子女王殿下 もちろん博祐の母ではない

 臣籍降下の理由についてだが、当時の皇室典範では二男以降は結婚しても新しい宮家を興せないためである。天皇の娘が嫁ぐ場合は身分差のバランスから竹田宮、東久邇宮、朝香宮など二男以降が新たに分家して作られた新立宮家もあるが、久邇宮家の多嘉王(たかおう)のように、結婚しても久邇宮家内にとどまった例もある。これは「西久邇宮家」を作ろうと温存されていたが結局なしになり、死ぬまで「部屋住み皇族」となった事例である。最近では「ひげの殿下」こと寛仁親王がこれに近い状況だった。寛仁親王は長男であるが三笠宮崇仁親王がご健在であらせられたため正式に三笠宮を継承していない。将来三笠宮殿下がお亡くなりになったら三笠宮家を継承する予定だったが、まさかの100歳超えの御長寿だったため寛仁親王の方が先に亡くなってしまった。弟たちは桂宮家、高円宮家を創設している。桂宮殿下は独身のまま宮家を創立された珍しい例。それにしても三人の息子全員に先立たれるとは長生きも大変なご心労だなと思う。

 

 余談だが、宮家の当主を「大宮殿下」「父宮殿下」、長男を「若宮殿下」という習慣があった。現在で言うなら秋篠大宮殿下、秋篠若宮殿下だ。皇族軍人は宮号に軍でのタイトルを付けて呼ばれることがあった。元帥なら伏見元帥宮殿下、司令官なら朝香司令官宮殿下、参謀なら竹田参謀宮殿下など。近代はマスコミの皇室用語の敬称が天皇陛下以外は「さま」で統一されてしまっている。皇后陛下ですら「皇后雅子さま」とは情けない。せめて産経新聞くらいは陛下、親王殿下、内親王殿下を正しく使って欲しいものだ。

 

 

明治38年 博信王の命名を報じる官報

 話を戻すと、当時の皇族男子は天皇の藩屏として全員軍人になることが求められており伏見宮家、華頂宮家は海軍の宮様だった。貞愛親王だけは陸軍だったが、その子らはみな海軍に進んだ。華頂博信閣下は巡洋艦や駆逐艦を渡り歩き水雷長や軍令部員などを歴任したようである。終戦までの後半は海軍の水雷系のスペシャリストとして教育畑を歩んで来られた。海軍中佐の階級で8月の終戦を迎え、9月に海軍大佐に上がり11月に予備役に編入となった。

 

 昭和20年に米軍を中心とした連合国が進駐してくると、華頂閣下は昭和21年に公職追放、昭和22年には華族制度が廃止され一般人と同じ身分となる。戦後は代々皇族を総裁に推戴している日本水難救済会の副会長も歴任した。水難救済会は父の博恭王も三代目の総裁に就いている。現在の名誉総裁は高円宮憲仁親王妃久子殿下。推戴とはいわゆるお飾りの事である。

 

常磐松の住所 当時の位階は従三位(じゅさんみ)


 鎌倉にある華頂宮邸が観光地として有名になっているが、鎌倉に住んでいたのは軍艦に乗っていた横須賀勤務時代の数年だけで、船を降りてからは渋谷区常磐松の皇族専用の御用地内に邸宅を構えていた。現在の常陸宮正仁親王殿下のお住まいの西側の区画である。戦後は侯爵でもなくなり、軍人恩給以外の定期収入がなくなってしまったので、その広い敷地でつつましく養鶏を営んで鶏卵を売って少ない収入を得ていたのだ。華子夫人はダンス教室を開き、最初の頃は博信も一緒に社交ダンスの講師をしていた。土地などの資産を切り売りし、常磐松の広大な土地は最終的に創価学会に売却された。現在の学習院初等科前の「東京研修センター」や「国際友好会館」がある土地である。すでに死亡しているが死亡を隠されている池田大作先生の住居としても知る人は知っている場所である。

 

食うために踊る! ダンシング☆ヒロノブ

 そんな折、昭和26年に華子夫人と46歳で熟年離婚。前代未聞の皇族初の離婚というスキャンダルに見舞われ週刊誌などに書き立てられた。博信は元来物静かで学者気質の性格だったそうで、それは写真の表情からも見て取れるが不倫現場を目撃してしまった時は自分の手を骨折するほど間男の戸田豊太郎を殴り続けたそうだ。バイオレンス☆ヒロノブ

 

 博信は庭で養鶏を営む一方、華子は邸内でダンス講師をしながら大日本婦人衛生会の仕事で知り合った戸田豊太郎と密会を重ねた。当時のスキャンダル記事を読むと非常に面白い。そもそも皇族の結婚は恋愛ではなく「国の上の方」で勝手に決められるもので、結婚式当日に初めて出会うなんてこともザラだった。例え皇太子であっても結婚相手は自分では決められないのである。離婚スキャンダルについては本題からそれるのでここでは詳しく書かないが、ネット上で読める記事をいくつか置いておくので興味のある諸君は各自の判断で読まれたし。

 

www.youtube.com

デイリー新潮

www.dailyshincho.jp

 

easthall.blog.jp

www.aozora.gr.jp

 

blog.goo.ne.jp

 

gogo34.blog40.fc2.com

 

離婚前の常磐松邸でのご一家の写真
子供は長男の博道(右)と、伏見に養子に行く博孝(左) 昭和10年頃
ニセ華頂嘘つき殿下の証言が正しければ、この幸せそうな家庭のウラで、別の女に博祐を生ませていたということになる。そんなわけがあるか!ハゲ!



創価学会に土地を売った金でアメリカに土地を買った

 

昭和28年12月 東京ユニオンチャーチで早川寿美子と再婚
だけどニセ華頂バカ殿下はルースとは再婚してないとか言ってる バカなのか?

昭和45年10月22日にロスで死亡 完っっっっっっ全に死亡している。

記事の配信は時事通信社

心理学を学んだ説もあるが訃報では細胞遺伝の研究だったらしい

 

議会制度七十年史 第1 貴族院議員名鑑
赤字で死亡メモが書かれていた

 

皇族会議に提出された【勲一等博信王殿下に家名を賜い華族に列せらるるの件】抜粋

臣籍降下勅書の案

次回は華頂博信閣下の子供たちについて書こうと思う。