【華頂博一(岡崎祐一)とは何者か】

 〜謎の殿下系YouTuberに迫る〜

殿下03 華頂宮家とは?

注:このサイトはブログという性質上、最新記事が常に上位に来ます。一気読みしたい方は記事番号殿下01から順にお読みください。


 

 みんな大好き殿下系YouTuberこと華頂博一殿下が名乗られておられる華頂宮について概略を説明したいと思う。

 

 華頂宮(かちょうのみや)は1868年(慶応4年)に伏見宮邦家親王の第12王子、博経親王によって興された宮家である。以下、スマホ向けに書かれてないので読みづらいのはご勘弁。

 

初代 博経親王(1851年〜1876年 25歳没)

二代 博厚親王(1875年〜1883年 8歳没)初代の長男

三代 博恭王 (1875年〜1946年 70歳没)初代の弟の長男、のち伏見宮に復帰

四代 博忠王 (1902年〜1924年 22歳没)三代目の長男

初代:華頂宮博経親王 元気そうだが数年後には死んでしまうのである
♪俺は伏見の生まれ華頂の育ち、伏見宮はだいたい早死に♪

 初代博経(ひろつね)親王は1歳で出家し京都東山の浄土宗の総本山の知恩院を尊秀の名前で継いだ。江戸時代の皇族の子供はだいたい赤ん坊の時にお寺に出すのが常であった。知恩院の山号が華頂山ということから華頂宮の宮号の由来となっている。9歳で博経の名前をもらい孝明天皇と徳川家茂の猶子となり親王宣下、その後剃髪し尊秀入道親王として知恩院門跡(宮門主)。16歳で明治天皇の命令で坊さんを辞めて華頂宮家を創設。19歳でアメリカ留学、23歳で博厚王をもうけ明治9年に25歳で薨去している。薨去(こうきょ)とは皇族の死亡のこと、天皇の死亡は崩御(ほうぎょ)という。ちなみに皇族は火葬されるが天皇皇后両陛下は今でも土葬である。

 

 よくニセ華頂殿下が言ってる「華頂宮は京都で素晴らしい仕事を沢山した」って言うのはウソである。調べればわかるが、そもそも病弱で、19歳でアメリカで軍事訓練をして体をさらに壊している。帰国後はほとんど病気で何の仕事もしていないのである。

 

 華頂宮二代目の博厚(ひろあつ)は、当時のルールでは臣籍降下するはずだったが、有栖川宮熾仁(たるひと)親王から「まだ赤ちゃんだから臣籍に降ろすのは可哀想」と明治天皇に請願があり、これを受けて特例として王の身位を与えて皇族に留め置き、1歳で華頂宮を継いだ。その後はジフテリアに罹りわずか8歳で病死してしまった。本来ならばこの時点で華頂宮は断絶となるが、当時は皇族の男子が少なく、明治天皇の特旨で宮家の継続を決定。その日のうちに明治天皇の猶子とし親王宣下を受け博厚「親王」とした。親王だったのは最期の1日だけである。次に華頂宮の後継者のとして白羽の矢が立ったのが伏見宮で行き先のなかった博恭王である。

 

三代:華頂宮博恭王 のち伏見宮に復籍し元帥海軍大将となった

 

経子妃は徳川慶喜の娘


 三代目の博恭王は伏見宮貞愛親王が17歳の時の最初の子で、愛賢(なるかた)として生まれた。母親が王妃(正妻)ではなく河野千代子という家女房だったために伏見宮の後継者とは見られず、当初は王の身位もなく皇族とは認められていなかった。貞愛親王がお手伝いさんを押し倒してチョメチョメしてしまったというわけだ。

 同い年の異母兄弟(ずっと間違えたままでした。正しくは邦家親王が共通の祖父のいとこ)、華頂宮二代目の博厚親王が病死したため、行き先の決まっていなかった愛賢王が明治天皇の意向で7歳で華頂宮へ入り跡を継いだ。この時に名前を華頂宮の通字となっていた「博」を取って愛賢から博恭(ひろやす)へと改名した。伏見宮は代々「邦」と「貞」を通字にしていたが、博恭王が華頂宮に移ってから改名したため、伏見宮は以降「博」が通字となった。

 博恭王はその後、28歳の時に長男の博義王を連れて華頂宮を離れ伏見宮に復籍する。これは宗家である伏見宮の後継者だった病弱の邦芳王(くにかおう)が23歳の時に「不治の病」で廃嫡とり、伏見宮の跡を取るためである。「邦」の字を使っていることから後継者と見なされていることが分かる。邦芳王はその後53歳まで生きたが未婚で子供がいなかった。ほぼ寝たきり状態で精神にも異常があり写真は出回っていないようだ。

博恭王の長男、博義王御夫妻 おちょぼ口が特徴

 

 

四代:華頂宮博忠王

 四代目の華頂宮博忠王は、父博恭王が伏見宮本家を継承したため1歳で華頂宮の当主となった。その為に博忠王は伏見宮に籍を置いていた時期がない。学習院初等科時代は昭和天皇と同級であった。海軍に進み軽巡洋艦に乗務したが大正13年に22歳で脳の感染症に罹り佐世保海軍病院で薨去した。最期は博恭王が看取った。戦闘中の殉死ではなく訓練中の病死のため最終階級は一階級特進で海軍中尉。公爵九条道実の娘、敝子と婚約していたが死亡したため未婚のまま子供がおらず華頂宮は断絶した。身長185cmの長身だったそうだ。

博忠王の薨去を伝える官報 大正13年3月26日号 喪主は当時海軍大将の父博恭王ではなく弟の18歳の博信王がやれとの御沙汰(天皇の命令)が左にある




 

 

 

華頂殿下の「おじいちゃん」でおなじみの伏見宮博信王 のちの華頂博信

 華頂宮の祭祀を継承したのは弟の博信王だが皇室典範のルール上、華頂宮の5代目とはなれなかった。皇族が増えすぎるため当主の長男でなければ宮家の跡を継げない決まりだったからである。兄弟間継承も禁止。養子を取ることも認められていなかった。長男が死亡し、二男三男が健在でもその宮家は断絶となるのである。二男は侯爵、三男以降は伯爵といったように皇族を降ろされていった。博信王は願い出て大正15年に皇族の身分を離れ、華頂博信として侯爵となった。

大正15年 博信王が臣籍降下したことを告知する官報



 次回は華頂博信について書いてみようと思う。