【華頂博一(岡崎祐一)とは何者か】

 〜謎の殿下系YouTuberに迫る〜

殿下05 華頂博信の子孫(狛江系統)

注:このサイトはブログという性質上、最新記事が常に上位に来ます。一気読みしたい方は記事番号殿下01から順にお読みください。

 


 さて、今回は華頂博信の子供たちについて書いていくことにする。まずは概略を知っていただくために系図を貼っておく。原典は霞会館発行「平成新修旧華族家系大成」下巻423ページである。Twitterに出回っている画像を拝借した。霞会館とは旧華族の親睦団体であり、子孫の消息調査を行いこのような分厚い冊子を出している。しかしあくまでも略図であり、プライバシーの問題もあり掲載していない人物もいる可能性がある。

 この分厚い系図本だが、当主格は住所電話番号職業までもが記載されており、昭和時代の個人情報垂れ流しスタイルが素晴らしい。これは「平成新修」という平成8年の改訂版で、その前には「昭和新修華族家系大成」というのがあった。極稀に図書館にも所蔵されているところがあるので興味のある方は調べてみてはいかがだろうか。

霞会館発行「平成新修旧華族家系大成」下巻423ページ

令和版も出ているが個人情報保護法があるため完全非売品で部数も少なくウン十万円の世界で古本市場でも入手困難である

 さて、ここで多くの人が疑問に思うのが殿下系YouTuberでおなじみの華頂博一殿下と、その父上である博祐(ひろすけ)の記載がないという点であろう。この一点を持ってしてアンチ派は「ニセモノだ!」「詐欺師だ!」などとYouTubeのコメント欄で非難GOGOするワケである。

 

 

華頂殿下の父、博祐は隠し子

 しかしちょっと待って欲しい、仮に、ニセ華頂殿下の父上の博祐氏が「隠し子」だった場合は当然掲載されない。時代とともに皇族も一夫一婦制となり、王妃以外の公式な「妾」は認められていなかったのである。隠し子は載らないし載せないのだ。皇族の出生を隠せるわけ無いだろうとお思いの方も多いだろうが、隠し子を生むのは家格の高い正妻の王妃ではなく、あくまでも使用人や外妾であって「隠された人」なのだ。やんごとなき方々にはそれなりの目的があって計画的に隠し子を作る場合もあるだろうし、無計画にできちゃった子もいるだろう。博恭王には正妻以外に5人のセフレ妾がいて、華頂殿下がその消息を追ったら男子が二人生まれていたそうだ。(これも多分ウソ)

 

ニセ華頂殿下は令和の上野正雄か? 

 個人的な洞察では、伏見宮家の場合は計画的に隠した血統を複数用意していたのではないかと推測している。ただ、ウラの隠し子がオモテに登場する時、今の時代はどういう手続きをするのか?という疑問は残る。上野正雄や二荒芳之のように宮内省が調査して皇族の後胤だと認定されて華族になった例があるが、それはあくまでも明治時代の話である。令和の時代に元皇族の隠し子を政府が認定して正式発表するなんてことはあり得るだろうか?私には想像ができない。基本的にありえない話だ。よって、

華頂博一が今後正式に旧皇族の末裔として政府から正式に認定されることは100%ない。当然、宮内庁が発表することも100%ない。断言する。

 

 私は華頂博一のアンチだったが、血統に関してはほぼ肯定派寄りに心情が変化してきた。なぜならニセ華頂殿下の語る博恭や博信の話はとてもリアリティがあり、ニセモノの設定台本として丸暗記したというレベルではないからだ。実際に体験し、見てきた聴いてきた完成度なのである。ニセモノだとしたら天才詐欺師だが、私はこの方を天才だとは思っていない。友だちにいたら楽しそうなただの小汚いジジイである。いずれにせよ、ニセ華頂殿下が情報を出し渋っているからこんなブログが世に出てきてアチラコチラでニセモノ呼ばわりされるのである。この責任の一切はニセ華頂殿下のその姿勢にある。

 

 前置きが長くなったが、博信閣下の子供たちを解説していこう。博道、博孝、治子の三人は正妻の華子夫人との間にできた子供で、末っ子の幸子は後妻のルース寿美子夫人との間にできた子供である。ルース寿美子と幸子については舞台がアメリカになるので後述する。博孝と治子についても別記する。

 

昭和16人事興信録 第13版 長男と二男と長女の記載あり

 

大衆人事録 昭和15年改訂13版 長男、二男の記載あり

 長男の華頂博道だが、この人は地味にネット上には情報があまり出回っていない。官報や紳士録系も調べたがほぼヒットしなかった。辛うじて週刊誌で写真を見つけた。眉毛が博信そっくりだ。この巻物の系図ぜひ拝見したい。

 

 

 

 wikiには「慶大経済学部卒業後、東欧トヨペット販売をへて三和自動車販売、華商事の各社長」という記載。他には母・華子の葬儀で喪主を務めたという記事。

 


(2003/05/10 11:25 【共同通信】) 「戸田華子さん(とだ・はなこ=旧皇族、故閑院純仁氏の妹)10日午前4時32分、肺炎のため東京都調布市の病院で死去、93歳。神奈川県出身。自宅は東京都狛江市中和泉5の40の26。葬儀・告別式は12日午後2時から東京都品川区北品川4の7の40、キリスト品川教会で。喪主は長男華頂博道(かちょう・ひろみち)氏。 戦後皇籍離脱した11宮家のうちの一つ閑院宮家の7代目で、1988年6月に死去した閑院純仁氏の妹。


 

 母の華子は博信と離婚すると実家である閑院を名乗ることができず、皇族時代のお印が竹だったことから竹村の姓で戸籍を編み、竹村華子となった。その後に不倫相手の戸田豊太郎(徳川慶喜の孫娘徳川喜和子の元夫)と再婚し戸田華子となった。博道は昭和5年(1930年)生まれだから、この2003年の葬儀時点では73歳。2023年現在では93歳である。死亡記事は見当たらないが、おそらくご逝去されているのだろう。華頂殿下は落合莞爾先生との対談で「この方は、博道さんはいらっしゃらないんですか?」の問いに華頂殿下は「いない、いないですね」との答えだった。

 

 さてここで気になるのが華子の自宅とされる狛江市の住所だ。この住所は博道が創業した美容院のもので、現在は三男である華頂博行さん夫妻が経営するHANA美容室のものである。戸田豊太郎と死別してから赤坂の邸宅で一人暮らしをされていたと思ったが、晩年は孫の博行さん一家と同居していたということだろうか。華頂博行さんにコンタクトを取れる方がいれば是非とも情報をお寄せいただきたい。

 

閑院宮春仁王と長男の華頂博道 閑院純仁と改名した著作から

閑院宮載仁親王と華頂博孝(のちの伏見博孝)

 

華頂博道インタビュー
「直子おばさん」とは閑院宮春仁王の元王妃、侯爵一条実輝の娘、直子のこと
直子の姉の朝子が伏見宮博義王に嫁いでいるので親戚関係になる。なお、春仁王は同性愛者で直子夫人が寝ているベッドの隣でお付きの兵隊と同性愛行為にふけっていたという

 

華頂家狛江系統

 続いて博道の子供らを追ってみよう。こちらは男子が3名おられる。博道の自宅が狛江にあり、現在も子孫が狛江在住だ。「博道系統」だとわかりにくいので便宜的に「狛江系統」と呼ばせていただく。要は博信の長男の子孫である。

 ここら辺の世代から個人情報保護の観点を気にしなくてはならなくなるが、崇光天皇の男系男子であり、本人たちも幼少の頃から伏見宮家の末裔であることを教育されてきただろうからこういう扱いは慣れっこだろう。画像などはあくまでもネット上で公表されている情報の再構築であるので問題はないと考える。

 

長男 華頂尚隆 昭和32年(1957年)66歳

二男 華頂博俊 昭和36年(1961年)62歳

三男 華頂博行 昭和37年(1962年)61歳

 

華頂博道ご一家 この家庭では学習院に進学はしなかったようだ

 長男の華頂尚隆さんは松竹にお勤めになられ、一般社団法人日本映画制作者連盟に出向され事務局長や顧問という肩書で映画関係のお仕事をしておられる。長男で次期当主なのに名前になぜ「博」の字を入れなかったのかが気になる。色々な理由があるのだろうがここは深くは言及しない。

ダンディな華頂尚隆さん

ちょっと若い頃の華頂尚隆さん

 

三年前の華頂尚隆さんの動画 いい人感がにじみ出ている

www.youtube.com

 

 二男の華頂博俊さんは若い頃はブティックの店長などとあまり情報がないが、博道が創業した中央運転サービスという運転代行の会社を継いで社長に就任しているようである。現在はドライバー派遣の「株式会社ドライバーズ バンク」となっている模様。

bm6z8nr9.jbplt.jp

 

 三男の華頂博行さんは上記の狛江の住所で博道夫妻が創業した美容院を継いで守り続けておられる。現在は娘さんも都内某所で美容師となられている。これ以降の世代の情報は把握しているが紹介しない。

三男 華頂博行さん

かわいい華頂博行さんご夫妻

狛江市の市民活動情報誌「わっこ」より 博道が創業した経緯が書かれている

 このページでは華頂博信の長男である博道とその子孫「狛江系統」について紹介した。次回はこの系統を除いた人物を紹介したいと思う。

 

ニセ華頂バカ殿下の名言を紹介しておく

「華頂の人には申し訳ないけど、こっちには伏見としてのプライドがある」

だってよwwwwwwww 岡崎としてのプライドの間違いじゃねぇの?