【華頂博一(岡崎祐一)とは何者か】

 〜謎の殿下系YouTuberに迫る〜

殿下06 後妻ルース寿美子/博孝/治子

注:このサイトはブログという性質上、最新記事が常に上位に来ます。一気読みしたい方は記事番号殿下01から順にお読みください。

 


 

 さて、前回は華頂博信の長男博道とその息子たち「狛江系統」を紹介したが、今回はその系統を除いた二男博孝、長女治子、幸子に触れたいと思う。

霞会館発行「平成新修旧華族家系大成」下巻423ページ

閑院宮載仁親王と7歳の華頂博孝 このあと伏見伯爵の養子に(閑院純仁の著作より) 

 二男の華頂博孝は昭和7年生まれで、華頂博信の弟の伏見博英伯爵の養子となって伏見博孝となった。その後昭和26に養子関係を解消して華頂姓に戻している。拾える情報では博孝には子供がおらず、伏見伯爵家は博英伯の後妻の子、四女の佳子の夫である伏見和夫が博孝の養子となって継承した。そのためこの系統の男系は途切れている。

 博孝は学習院幼稚園と学習院初等科で上皇陛下のご学友であったが、その後の情報はほぼない。平成3年に58歳没。

 

何やら裁判の被告になっている華頂博孝 ここはこれ以上は掘らない


伏見伯爵(博英王)のこと

 華頂博孝が養子に行った先の伏見博英は大正元年生まれで皇族時代は伏見宮博英王といった。昭和11年に臣籍降下し、昭和天皇から伏見の姓を賜って伏見伯爵家を興した。戦争中の昭和18年にスラウェシ島ボネ湾上空で米軍の爆撃機2機と遭遇し撃墜され、当時海軍大尉だった伏見博英は乗員20名とともに戦死した。享年30。

 伏見伯爵家は女児ばかりで爵位を継ぐべき男児がいなかったため継嗣子が決まるまでは戦死認定は控えられた。そこで兄の二男の華頂博孝を養子に迎えて伯爵の地位を継がせたわけだ。横須賀鎮守府で挙行された戦没者の合同海軍葬では、伏見伯爵を「英霊の筆頭として安置すべき」との意見を父の博恭王が退け、特別扱いされることなく一般の戦没者とともに葬送された。

華頂博信の弟である博英王、のちに伏見博英伯爵

杉並区の東田にあった家で猟犬を飼い、養蜂や養鶏をしていた

左目の外斜視が特徴的な伏見博英伯爵
胸に付けているのは勲一等旭日桐花大綬章の副章 皇族は15歳になるともらえた

伏見博英閣下 海軍大尉の階級章が就いている ご専門は通信技術

伏見伯爵ご一家 戦死の約一年前、昭和17年頃か
左から後妻の定子(黒田長和男爵の娘)、順子(夭逝)、前妻の長女元子、二女和子
前妻は豊子(柳沢保承伯爵の娘、22歳死亡)
和子は京都東山の得浄明院五世住職「伏見誓寛尼」としてご健在

伏見農場ではなく富士見農場としたのはシャレらしい



 

 長女の華頂治子は、元外務大臣の松岡洋右の三男、松岡震三と結婚している。結婚式の仲人は佐藤栄作の予定だったが風邪をひいてしまい、代役に兄の岸信介が仲人を務めた。松岡震三と岸信介、佐藤栄作の兄弟はいとこにあたる。(松岡震三の姉の藤枝の娘寛子が佐藤栄作夫人)

松岡洋右は日本が国際連盟を脱退した時の全権で、演説後に議場を去る映像が有名だろう。松岡震三は住友金属工業専務を努めた人物で2010年に死亡している。

華頂博信の長女、華頂治子さん 現在は松岡治子さん89歳
慶応大学文学部,ハーバード大教育学部卒の才女である

華頂治子の手記

両親の離婚について語っている

昭和63年の週刊読売 伏見宮家略図
当然ながら博祐と我らの華頂殿下は載っていない



 華頂幸子は昭和30年生まれで、母は華頂博信の後妻である早川”ルース”寿美子。博信は華子と離婚後に寿美子夫人と昭和28に東京ユニオンチャーチで再婚し渡米した。

 寿美子さんは福岡県生まれの日本語が不自由な日系二世で、2歳の時に渡米してカリフォルニアで育ち、開戦直前に日本に戻ってきて世田谷にあった女性教育者の河井道が設立した恵泉女学園に昭和13年に入学。昭和18年3月に河井道の薦めでラジオ東京に採用され、連合国軍向けプロパガンダ放送のアナウンサーの仕事をした。いわゆるゼロアワーの「東京ローズ」ではないかと疑われたうちの一人である。

www2.nhk.or.jp

 

 余談だが、河井道はマッカーサー元帥の下で対日心理戦を指導していたボナー・フェラーズ陸軍中佐(当時)の引き合いで、昭和天皇とマッカーサーが会見する4日前にアメリカ大使館でマッカーサー元帥と会っている。天皇戦争犯罪訴追が回避された動きにも大きく関わった、とされている。

https://m.media-amazon.com/images/I/41FJvGGSYrL.jpg

 

 昭和28に華頂博信と結婚し、昭和30年に幸子を出産、昭和39年にアメリカに帰化。平成21年に亡くなり、ローズヒルメモリアルパークの華頂博信の墓に一緒に埋葬されている。Ruth Sumiko Kachoとして亡くなるまで華頂姓を名乗り続けた。

https://www.rosehills.com/obituaries/whittier-ca/ruth-kacho-8477171

 

 

若い頃の早川寿美子さん

 

インタビューに答える晩年の華頂ルース寿美子さん

生前のインタビュー動画

www.youtube.com

blog.janm.org

 

 ところがルース寿美子さんについて華頂殿下はこのように言っている。

www.youtube.com

 

「博信の再婚相手は早川ルースではありません」

 いや、品川で結婚式挙げてるやん。参列した人もたくさんおるやん。

なぜそこら辺の情報を出し渋っているのか? 竹田恒泰さんが華頂殿下に対して詐欺師だニセモノだと発言された動画に対するアンサーでも、自分のことを証明する必要性を感じないとおっしゃっていた。そういう姿勢が疑惑を大きくしてアンチを生み出しているのではないだろうか。言えない事情、言うことで迷惑がかかる人があるかもしれないが、姿を表して公の場で旧皇族を名乗って活動している以上、いつまでも隠し通すのは筋が通らないと思うのである。

YOU! もう全部ゲロっちゃいなYO!

この再婚は偽装だったということか

 動画内で一緒にアメリカに行ったのは早川ルースではありませんと言っているが、ホノルル行きの飛行機の乗客名簿にKACHO SUMIKOとKACHO HIRONOBUが載っている。

殿下よ、これは寿美子さんのパスポートを使ったニセモノという解釈でよろしいか?

 

昭和30年5月13日厚木発ホノルル行きのパンナム機の乗客名簿の華頂夫妻。
HONOLULU, T.H.とはTerritory of Hawaii、ハワイ準州のこと。
ハワイが州に昇格したのは昭和34年
ルースの娘、幸子の誕生が昭和30年7月27日なので、この時ルースは妊婦だったということになる。昭和39年まで海外渡航は自由化されていなかったので相当高い旅費だったはずだ。

こちらは到着時の昭和30年5月16日

事前検査済み 華頂夫婦の名前が記載されている

 

 話を戻そう。華頂博信の後妻であるルースの娘さんである華頂幸子さんは、霞会館資料にもある通り昭和30年7月27日生まれで現在68歳。昭和52年に21歳でバート・Q・エン(Bart Quen Eng)という医師と結婚し、アリゾナ州ピオリアに移住し複数の子供達を産んだようだ。その子らにも子供ができており、華頂博信から見るとひ孫の世代に当たる。もっとも幸子さんの実の父親が華頂博信であった場合ではあるが。華頂殿下は博信の再婚相手はルースさんではないと明言しているから偽装結婚だったということだろう。幸子さんの実の父親は別にいるのか? 

 情報の確実性に欠けるのでここでは紹介しないが、幸子さんの娘たちの中でアレクシアエイドリアンという医師になった子もいた。また、それぞれミドルネームにKachoを付けており、華頂の名はアメリカでも続いている。この世代は自分の先祖が日本の天皇だと教えられているのだろうか。

 

 

 

 

1977年のUCLAのイヤーブック 18歳の華頂幸子さん
BAはBachelor of Artsのことで「学士」

同じイヤーブック 華頂幸子さん(左端)

昭和47年の日系人コミュニティの新聞の記事に華頂幸子さんを発見
アメリカでもちゃんと伏見宮貞愛親王のひ孫と認識されている



ルースさんの合衆国帰化申請書
夫はHIRONOBUと書かれてはいるのだが、、、何が真実で何が偽装なのか