【華頂博一(岡崎祐一)とは何者か】

 〜謎の殿下系YouTuberに迫る〜

殿下030 鞆の浦

注:このサイトはブログという性質上、最新記事が常に上位に来ます。一気読みしたい方は記事番号殿下01から順にお読みください。


 


 さて、ボルタレン祐ことニセ華頂殿下が事あるごとに話題にする広島県福山市の「鞆の浦」について少し研究してみよう。鞆の浦と言えば、ニセ華頂殿下の華頂博一こと岡崎祐一さんの祖父が生まれたところである。「旧皇族設定」では祖父は華頂博信(皇族時代は伏見宮博信王)としているが、実際には岡崎秀夫というただの一般人であることは私が今までに暴いてきた通りである。というか過去にニセ華頂殿下が自分で何度もSNSに書き込んでしまっているだけなのではあるがw

 

 伏見宮博信王の出生地は当然ながら鞆の浦のワケがなく、東京の三田にあった華頂宮邸である。ここは現在の港区立亀塚公園で、宮邸当時の外壁と井戸跡が現在でも残されている。江戸時代は清和源氏の沼田藩土岐家の下屋敷があった土地で、明治に入ってから華頂宮邸となった。当時は海っぺりの台地であり、天気がいいと房総半島まで見えたそうだ。

港区立亀塚公園 外壁は華頂宮邸当時の物 現在は塗装されて綺麗な白壁になっている

 

 明治6年に華頂宮2代目の博厚親王が8歳で薨去すると、当時の伏見宮家の庶子で当主の貞愛親王の第一子ではあるが王の身位すらなかった(皇族ではなかった)9歳の愛賢(なるかた)に、明治天皇の特旨によって華頂宮の相続が申し付けられた。愛賢少年は父親の伏見宮貞愛親王が正式に有栖川宮利子女王と結婚する前にお手伝いさんとの間に出来ちゃった子供なのだ。これを受け愛賢少年は華頂宮風の博恭に改名し、王の身位を賜って皇族となった。そして紀尾井町にあった伏見宮邸からこの三田の屋敷に引っ越し華頂宮3代目当主となったのである。

 この屋敷で明治30年1月に23歳で徳川慶喜の九女、経子と結婚して子どもたちを生んだ。生まれた順に明治30年12月博義王(ご存命の伏見博明さんの父)、同31年11月に恭子(やすこ)女王、同35年1月に博忠王(華頂宮4代目)、そして明治37年に伏見宮家の次期当主予定だった邦芳(くにか)王が病気のため廃嫡になると、博恭王、経子妃、博義王、恭子女王が本家の伏見宮家に復籍、華頂宮家は2歳の博忠王に継がせたわけである。伏見宮家に復籍はしたが、当時麹町区の紀尾井町にあった伏見宮邸に引っ越しをした訳ではなく、今までと変わらずご一家でこの三田の屋敷に住み続けていた。まだ伏見宮家当主の父、貞愛親王がご存命中であり、寝たきりの邦芳王と一緒に伏見宮邸に住まわれていたからである。正式に博恭王が伏見宮家の当主となるのは大正12年に貞愛親王が薨去し、博恭王が49歳の時のこと。

 そして明治38年5月22日に博信王が誕生するが、もちろん三田の華頂宮邸でである。明治時代はまだ自宅出産が当たり前なのだ。なのにニセ華頂殿下は博信王が鞆の浦で生まれたと言っている。これは祖父の岡崎秀夫さんと博信王をどうしても同一人物にしなければ旧皇族の設定が破綻してしまうためだろう。

 

ニセ華頂殿下のフェイスブックより

 「手書きの青ずり」とは祖父の戸籍謄本がジアゾ式のいわゆる「青焼き機」のコピーだったって事だろう。ちなみに「ガリ版」の事ではない。複写機が普及するまでは戸籍の写しを取得する場合は基本的に手書きである。原本を見ながら担当の役人が手書きで専用の戸籍用紙に記入し、別の役人が校正して一語一句相違なければ首長の印を押して発行する。なのでとても時間のかかる仕事だった。戸籍の原本自体が古くて活字化されておらず、毛筆の場合もあるから漢字の間違えなどもあっただろう。

 複写機での謄本作成が政府の通達で正式に認められたのは実は昭和26年と遅く、卓上の青焼き機(いわゆるコピア)が役場に普及してからのことである。地方にも普及したのは昭和30年以降なのでニセ華頂殿下が所持している戸籍はおそらく発行日が昭和30年以降に複写された謄本ということだろう。ゼロックス式のいわゆる「コピー機」が役場で使われだして青焼き機と入れ替わるのは昭和50年代だ。ランニングコストの面で青焼機はもっと後年まで現役であった役所も多い。今ではマイナンバーカードがあればコンビニのコピー機で簡単に戸籍謄本が取れてしまうのだから素晴らしい時代だ。(参考資料:戸籍事務近代化への道を語る 複写機から戸籍電子化への展望)

↓原本を見て手書きした戸籍謄本のイメージ(新渡戸稲造の)役人の字が汚いと最悪w

 

 


 おっと、鞆の浦からだいぶ話が逸れてしまったので元に戻そう。ニセ華頂殿下が以前にご自分で某SNSに記入していた祖父岡崎秀夫さんの戸籍住所は広島県沼隈郡 鞆町字後地 994番屋敷」である。現在の鞆町後地(うしろじ)の番地からすると、ちょうど備後安国寺の裏手の高台に当たる地域ではないかと推測する。

 

土地が低い右側が備後安国寺 左側が994番屋敷があった場所か?

 先日の生配信でニセ華頂殿下が戸籍について熱く語っている部分があるので紹介する。51分あたりから56分くらいまで。まずはご覧ください。

www.youtube.com

 アンチの人は嫌いじゃないとは私のことかな?w 私もユウちゃんは大好きだよ〜 慈愛に溢れていろんな才能があって、何よりお話が面白いからね! 「信者」のみなさんの誰よりも殿下に興味を持ってを調べ尽くしておりますよ! でも一緒にはやりませんぞ! おい、ソイちゃん笑えよww

 

 「うちのおじいちゃんの出生地に今の今上陛下の植樹があるよ」と言っているが、それはこのページの冒頭に貼った写真のことである。この植樹は今上陛下がまだ皇孫の浩宮殿下だった頃、学習院大学の卒業論文執筆のために瀬戸内海各所を訪問した際に備後安国寺に立ち寄った時の物である。浩宮殿下の卒論は「兵庫北関入舩納帳」の一考察 〜問丸を中心にして〜 である。原文はネットに公開されているので誰でも読むことができる。「問丸・といまる」とは今で言う運送流通販売を一手に引き受ける業者のこと。現代の3PLの江戸時代版みたいなもんです。流石、我らの天皇陛下はお書きになる文章も気品にあふれていらっしゃる。

www.jstage.jst.go.jp

 

 

 で、この植樹が岡崎秀夫さんの出生地のすぐ近くにあるということが何の証明になるのだろうか?浩宮殿下は卒論執筆という明確な目的を持って鞆町にお出ましになられておられるのだ。それに皇室の方々の植樹は全国に膨大にあるし、備後安国寺の植樹が何か特別な意味があるわけでもあるまい。亡くなった祖父秀夫さんからの口伝もあるだろうが、ニセ華頂殿下はこの植樹と祖父の戸籍住所の近さに何か特別な因縁を感じていつもの拡大解釈をしてしまったのだろうと容易に想像ができてしまうのである。

ミスター都市伝説 落タクスゼイアン落合莞爾先生と

 それと小松宮には鹿島という戸籍があったとかぬかしやがっているが、そんな事実は当然ながらない。当たり前のことだが皇室皇族は臣民ではないのだから戸籍がない。皇統譜皇族譜によって政府が管理している。それに小松宮家は幕末から明治36年まで生きた彰仁親王ただ一代で断絶している。彰仁親王が鹿島っていう苗字で戸籍を持っていたって言ってるのですか殿下? 現役の皇族が戸籍を?? 免許を取るため?w 家を買うため?w アホかい! 証拠を出しなさいよ証拠を! これなら殿下の出自と無関係なんだから証拠を出せるでしょうよ! そんな証拠はないんだよ! ふ〜〜

 ちなみに臣籍降下して鹿島姓を賜った元皇族の方はいる。山階宮晃親王の王子、萩麿王が昭和3年に鹿島伯爵家を興している。皇族から華族に降りれば臣民の身分であるので当然戸籍は付与される。

 

 ニセ華頂殿下が何をもってそんな馬鹿げたことを公言しているのか?それはもちろん祖父の秀夫さんから嘘を教えられたか、殿下が考えた妄想だろう。なぜなら宮内庁にも「彰仁親王に鹿島の姓で戸籍を下賜する件」、、、、とかいう文書は存在しないのだから。「もう言ってもいい時期かな」とかそういう言い方はもうやめませんかユウちゃん。オカルトバカはだませても教養のある普通の人たちはだませませんよ!

 

殿下029 華頂宮として世に出る前夜

注:このサイトはブログという性質上、最新記事が常に上位に来ます。一気読みしたい方は記事番号殿下01から順にお読みください。


 

 さて、ニセ華頂殿下の過去がどんどん暴かれている。もうニセ華頂殿下が旧皇族とはまったく血縁のないただの一般人だということは間違いなく確定しており、ニセ華頂信者の頭が悪い人たちを除いては周知の事実になっていると思う。

 

 FM戸塚でのボルタレン祐時代が2011年〜2014年くらいまでだが、ニセ華頂殿下の自称によれば2012年の12月25日に体が動かなくなり、どうせ体が動かないんだったらおじいちゃんが言っていたことを調べようと決めたと。これは何度も言っているから殿下ファンならご存知のはずだ。いわゆる「伏見がどこから来たのか」ってヤツだ。

言っちゃってるよねユウちゃん

 だが、2012年の12月25日と言えば、まだボルタレン祐時代でブログを書いている時期と重なる。では、その時期にボルタレン祐はどんな内容のブログを書いていたのだろうか? 記事一覧を見てみよう。

 

あれあれあれ?w

 うーむ、体が動かないって相当な重病だし、SNSで日記を書いていたらそのことも書くでしょう普通。特に承認欲求が強いユウちゃんなら必ず書くはずだ。でもでもでも? そんな事は一つも書いてないのである。何が「サンタさんに若干コネが」だよw というワケで、この「体が動かなくなった」というのも虚言でありウソだった事が確定した。私は熱烈なニセ華頂殿下ウォッチャーであるから、このブログも当然すべてに目を通しているが「体が動かなくなった」なんて記述はひとつもなかった。

 

 このボルタレン祐のブログは2014年1月で更新が終了しており、これ以降の期間は別のSNSに切り替わっている。3年の空白期間があるが、まずは2017年1月1日の投稿を紹介しよう。

 

 

 この頃にはもう旧皇族として世に出ることを計画していたのだろう。「現実にはありえないと思われる真実」がそれを暗示しているし、「不都合な方々もおられます」とは華頂博信侯爵を始祖に持つ、華頂侯爵家の子孫たちや、アメリカの華頂幸子さんのファミリーに対してだろう。もうこれは確信犯である。風のうわさによると、正当な華頂侯爵家の方、どなたかは言わないが、華頂博一を認識しており強い不快感を示しておられるらしい。関わり合いにはなりたくないのだろう。

 

 そして2017年10月17日といえばニセ華頂殿下が「宮内庁に呼ばれた日」だが、これについての直接的な記述は見当たらないが、コメントに一つだけあった。

 

 

 ↑この投稿に対してのコメントがこちら↓

 

 そして2018年3月15日にこの投稿。「もう良いでしょう」 これはニセ華頂殿下の中で旧皇族華頂博一としての「設定」が盤石なものとなり、これで旧皇族として世に出ても良いでしょうという意味に取れる。ちなみに行ったことがある人ならわかるが、この写真は江戸城の「富士見多聞櫓」が公開されたときに撮影されたものである。胸に付けている緑のバッジは宮内庁の見学者向けの貸出バッジである。

news.ntv.co.jp

江戸城 富士見櫓 内部 (390 無料写真)

富士見多聞(御休息所前多聞) | 江戸城のガイド | 攻城団

 

  そして2018年4月27日の投稿がこちら。

 

 朝鮮半島に平和が〜という部分は、パンムンジョム(板門店)で金正恩と文在寅が南北首脳会談を行ったことについてである。そして「なるかたジージ」とは、伏見宮博恭王殿下が華頂宮を継承したときに「博恭」と改名する前の名前である愛賢(なるかた)のことであろう。図々しくも、この時点で博恭王殿下の子孫であると自称しているのである!許せん!しかも高祖父と曽祖父を間違えているあたりがユウちゃんらしい。その設定で高祖父と言えば伏見宮貞愛親王になるはずで「さだなるジージ」だろうに。

 

南北首脳会談:米政権 非核化の「具体的な意思」見定めへ | 毎日新聞

 

 さらにニセ華頂殿下がよくのたまわっている「伏見の家訓」も今と内容が違うw 汝(なんじ)を女と書いているあたりが爆笑モノである。そして最後の「内閣府章句局」とは「内閣府賞勲局」の事だろう。その賞勲局の◯◯さんとのツーショット写真が掲載されている。ニセ華頂殿下は賞勲局に1年もの期間通い、何か調べ物をしていたのだ。実際の祖父、岡崎秀夫が蒐集した勲章などの「殿下グッズ」の鑑定を依頼したりしていたのではないかと推測する。

 

 

 そしてこの後、2020年11月21日に裏天皇「岡崎華頂」として初めて聴衆を前にしてイベントに参加するのである。

 

 

 

 さて、ニセ華頂殿下こと岡崎祐一の友人知人のみなさん、これをご覧になっていたら是非空白期間の情報をお寄せいただきたい。この後、どのようにして岡崎祐一が旧皇族華頂博一として人々を信用させていったのか、その行程が知りたい。

 

 

 

殿下028 FMラジオで番組を持っていた?

注:このサイトはブログという性質上、最新記事が常に上位に来ます。一気読みしたい方は記事番号殿下01から順にお読みください。


 

 さて、かなり前の記事で殿下が昔にFMでDJをしていた件について、そんなワケあるか!妄言だ!と、大した深掘りもせずにこき下ろしてしまったワケだが、これは紛れもない事実であった事が判明した。ここにお詫びして謝罪いたします。華頂博一こと岡崎ユウちゃん、大変申し訳ございませんでした。許してチョコ!

 

 実はFMの件については、事実だとしたらユウちゃんの地元の佐世保のラジオ局だと睨んでかなりの調査はしていたのだが、それらしき痕跡が発見できずに断念していたのだ。今回ツイッターのフォロワーの方から情報をいただき判明したというわけだ。最近ツイッター上でDMで情報をくださる方が増えてきている。みなさん華頂博一が「旧皇族」だという部分に疑念を持って私に情報を寄せてくださっているのだ。今後もさらに過去の情報が寄せらると思う。情報をお持ちの方は是非ツイッターのDMでお寄せいただきたい。

 

 

 さて、肝心のFM局と番組名を公表したいと思う。それは、、、

FM戸塚「ボルタレン祐の維新伝心」

 

 FM戸塚?聞いたことねえぞ! それもそのはず、全国に無数にある小さなコミュニティFM放送局のひとつなのだ。神奈川県横浜市戸塚区と港北区の一部をカバーするだけの空中線電力10ワット、実効輻射電力でも33ワット程度だから戸塚区に行かないと手持ちのラジオでは聴くことができない。ただ、インターネットで聴けるような仕組みは当初からできていた。FM戸塚は周波数83.7MHzで、演奏所(スタジオ)も送信所もJR東戸塚駅前のベリスタタワーである。このビルにあるモレラ東戸塚スタジオで華頂博一こと岡崎祐一が「ボルタレン祐」の芸名で収録を行っていたのだ。当時のユウちゃんは戸塚区に居住していた。放送時間は毎週土曜日の21時〜22時、その日の再放送は25時〜26時だった。

 

楽しそうなボルタレン祐こと、現在の華頂博一さん

エフエム戸塚 モレラ東戸塚スタジオ - スタジオ - 東戸塚駅・下永谷駅 [うぇぶかにほん]

 放送期間は2011年から2012年9月までの1年半程度だが、ボルタレン祐のブログは放送終了後も継続し、2014年1月が最後の投稿となっている。当然すべて読んだが、子供さんたちの情報も含まれているので私からはここで言及しないしリンクも貼らない。興味のある方はご自分でどうぞ。お子さんやお孫さんたちは旧皇族の件とは関係ないし、変な害が及んではいけないから。

 

 投稿の中に父について書かれたものがある。それによると「父はプロゴルファー」とか「父はゴルフで生活していた」などがある。「プロ」というからには当然日本プロゴルフ協会(PGA)で資格を取得しなければならないが、岡崎博祐なる人物は見当たらなかった。ゴルフ練習場やゴルフ場でレッスンプロ的なことをしていたことを「プロ」と言っているのではないだろうか?

 

 そして興味深い記事としてタイトルが「解散」という2012年11月15日の記事に、殿下が「結婚中」に名乗っていた姓が書かれている。平成21年9月16日、この日の国会は麻生内閣総辞職後の総選挙の結果を受けて招集された特別国会で、民主党の鳩山由紀夫が首班指名された国会である。殿下はこれを傍聴に行っていたのだ。

 

 

 これについてはプライベートな部分なのであまり深く言及しないし、今のところテキスト化もしないでおく。当時の殿下の、いや、ユウちゃんのブログを読むと、音楽を愛し子どもたちの未来を案じ、お年寄りを大切にする今と変わらないユウちゃんの人間性が見て取れる。2011年当時はまだ伏見がどうとか華頂がどうとか書かれていないし、幸せな結婚生活をし、ラジオのパーソナリティとして活躍するミュージシャンとしてのユウちゃんがいきいきと描かれている。この数年後、家庭崩壊、カルト宗教との裁判という道を辿ることになるが、そこは私が言及すべきではない。ただ、確実に言えることは、ユウちゃんは友達も多く人望もあり、決して悪人ではないということだ。どうして今のように旧皇族を騙り、根拠のない都市伝説と嘘の歴史を吹聴しまくる怪人物に変貌してしまったのか、とても興味深い。

 

 

 

 

殿下27 設定前の設定?

注:このサイトはブログという性質上、最新記事が常に上位に来ます。一気読みしたい方は記事番号殿下01から順にお読みください。


 

 さて、ニセ華頂殿下のひいじいさんと言えば伏見宮博恭王殿下というのは、あくまでも「設定上での話」であることは以前の記事でも述べた。ほんとうの曽祖父の名前は「岡崎卓伍」であると思われる。

 

kachyou-fake.hatenablog.com

 

 今回はニセ華頂殿下が華頂博一になる前の本名、岡崎祐一として某SNSに投稿した文章を元に検証してみようと思う。今から約7年前、2016年7月の投稿だ。まずはご一読を。

 

 ここでも曽祖父を岡崎卓伍としている。これで完全にニセ華頂殿下の曾祖父さんは伏見宮博恭王殿下ではなく、岡崎卓伍だと確定していると言っていいだろう。なにせニセ華頂殿下ご本人が書いているのだから。そしてこの文章には突っ込みたいところが数多くある。ここら辺の旧軍にお詳しい方ならあれれ?と思われるだろう。

 

 まずは海軍"大"学校についてだが、場所は広島ではなく、現在の東京都品川区上大崎にあった。広島にあったのは江田島の海軍"兵"学校である。巡洋艦日進の「機関小官」と書かれているが、正しくは「機関少監」であろう。これは階級的には海軍少佐相当で、艦船の蒸気機関の運用と保守整備などを専門にするプロ集団の階級である。大正4年からは「機関少佐」と改称されている。明治時代の蒸気機関に関わる人員は兵科とは別で、軍医などと同じ「乗組文官」という扱いだったのである。兵科と階級統合されるのは遅く、もっと後になってからである。

 

 続いて「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」でおなじみの優秀な海軍軍人、秋山真之(さねゆき)についてだが、海軍大学校の校長だった事実はない。明治35年に海軍大学校の戦術教官となっているが校長ではない。当然、海軍"兵"学校の校長であった事実もない。wikiに歴代校長が掲載されているので確認されたし。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

 

 つづいて「広島陸軍38連隊」について。いわゆる「歩兵第38連隊」の事だと思われるが、サンパチ連隊本部が広島を拠点にしていた事実はない。ご存知のように連隊とは軍隊の編成における作戦単位で、帝国陸軍の場合は平時と戦時ではもちろん違うが、上位から総軍>方面軍>軍>集団>師団>旅団>団>連隊>戦隊>大隊>中隊>小隊>分隊のように階層化されていた。サンパチ連隊は明治29年に滋賀の大津で結成され、以降は京都、大阪、奈良と本部を移転し、隷属先もコロコロ変わっている。宇品で仮泊したことはあるようだが、基本的に広島とは無縁である。38師団の書き間違えか?とも思ったが、38師団は名古屋であるし、普通は軍隊に入隊すると言えば赤紙で徴兵されて地元の連隊に所属する事の意味だろう。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

 

 以上のように、書かれている内容がテキトーすぎて困惑してしまうわけである。

 

岡崎伍について

 さて、ニセ華頂殿下が曽祖父と書いている岡崎伍(たくご)なる人物だが、実は似た名前で海軍中将まで上がった岡崎伍(ていご)なる人物が存在する。岡崎貞伍中将の軍歴を略記してみよう。

明治4年9月20日 現宮城県南郷町、岡崎七郎太の三男として誕生

明治24年 海軍兵学校入学(第二期)

明治28年 海軍兵学校卒業

明治31年 少機関士 アメリカ出張

明治32年 中機関士 巡洋艦「吉野」勤務 海軍機関術練習所教官 イギリス出張

明治37年 巡洋艦「日進」機関分隊長

明治38年 機関少監 黄海海戦、日本海海戦に従事

明治41年 機関中佐

大正3年 機関大佐

大正8年 機関少将

大正10年 舞鶴工廠長

大正11年 佐世保工廠長

大正12年 機関中将

大正13年 海軍中将 海軍機関学校校長(舞鶴)

大正14年 予備役編入

昭和13年 退役

昭和17年 70歳没 正四位、勲二等、功四級

 

 どうだろうか、ニセ華頂殿下が曽祖父だという「岡崎たく伍」の経歴にあまりにも似てはいないだろうか?

岡崎たく伍 海軍""学校卒 巡洋艦日進 機関少監 対馬沖へ、、、

岡崎てい伍 海軍""学校卒 巡洋艦日進 機関少監 対馬沖へ、、、

対馬沖とは言わずもがな「東郷ターン」でロシアのバルチック艦隊を破った「日本海海戦」のことである。

 

 こんな事ってあると思う?w

 

 そんなワケあるか!!wwwww これはどうやら華頂博一になる前の岡崎祐一が曽祖父を岡崎海軍中将と重ねて妄想してしまった結果なのか? いや、岡崎貞伍は中将とは言え元は機関士でマイナーゆえ知名度も低いから、祖父の岡崎秀夫さんが嘘を岡崎祐一少年に教え込んだ結果ではないだろうか? というわけでどうやら「岡崎卓伍」という名前さえも事実かどうか怪しくなってきた。

 

 ちなみに岡崎てい伍は自民党の政治家だった岡崎英城の父親である。もちろん血縁を探ったが、当然ながら岡崎秀夫、岡崎博祐などは存在しなかった。

 

ja.wikipedia.org

 

www6.plala.or.jp

 

 いかがでしたでしょうか皆さん。いずれにせよ。これでニセ華頂殿下と伏見宮博恭王殿下には何の関係もないことがハッキリ証明できているのではないでしょうか。明治40年5月10日の官報をご覧ください。明治天皇と伏見宮博恭王殿下、そして機関少佐時代の岡崎貞伍が同席しております。これで岡崎貞伍=博恭王殿下は偽名とかではなく完全に別人であると証明されました。

 

大正6年の「中央之旧仙台藩人譚」より 岡崎貞伍の記事

 

あまり関係ないが佐世保工廠長時代の書類

 

ちなみに岡崎中将は予備役編入後に川北電気製作所(現パナソニック エコシステムズ)や、今も続く住友系の日新電機に入り代表取締役会長を努めた。


 そもそもニセ華頂殿下は祖父を華頂博信としているはずだが、この投稿を見ると「秀夫」となっている。華頂博信は海軍で最終的に海軍大佐まで上がった元皇族のエリート軍人である。そんなやんごとなきお方が広島で「陸軍」に徴兵されて二等兵で最前線に行ったと。これはもう話が破綻しておりますね。これでもまだニセ華頂殿下は本物だと言う人がいるとしたら完全に頭がおかしいですよ。よくお考えください。

華頂博一(岡崎祐一)は旧皇族とは血縁のないニセモノだと確定しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

殿下26 華頂殿下の病名は恐らく…

注:このサイトはブログという性質上、最新記事が常に上位に来ます。一気読みしたい方は記事番号殿下01から順にお読みください。


 

 ニセ華頂殿下の虚言癖や妄想癖などを私はできるだけ柔らかく大雑把なくくりで表現してきた。しかしもうここまで来たら、今まで言うのを何度もためらい自制していた表現方法を使ってしまおうと思う。これはもはや最終手段に近い。

 

 ズバリ言うと、華頂博一こと岡崎祐一さんは「妄想性障害」統合失調症ではないのか。

www.youtube.com

 ああ、ついに言ってしまった。岡崎さんには大変申し訳無いのだが、もうこれは間違いないと思われる。あらゆる状況証拠がそう物語っているのだから。

 

 統合失調症とは100人に一人の割合で発症しうる精神疾患で、決して珍しい病気ではない。私にも統失で誇大妄想の知り合いがいる。詳しい病気の内容はここでは述べないので各自調べて統失への理解を深めてほしい。

 

 統合失調症には様々な妄想を伴う物が多く、妄想性障害の妄想は様々に細分化されて研究されている。その中でも華頂博一さんの症例は「誇大妄想」の中の血統妄想と呼ばれるもので、ミニョン妄想とも呼ばれるものだ。具体的な症例としては、

 

・自分が貴族などの高貴な血統の生まれであると確信する

・天皇、皇族などの隠し子、戦国武将の生まれ変わりなどと確信する

・高貴な血統だが秘密の事情により一般家庭で育てられたと確信する

・実の両親がいるのに別に高貴な両親がいると確信する

 

 いずれの症例も華頂博一さんにピッタリ当てはまっているのではないだろうか? 誇大妄想は持続的で治療が難しいらしい。慢性化した統合失調症や妄想性障害に典型的に見られるとのことだ。血統妄想は自分をより偉く見せたいという願望から、自分の血統を誤った状態で信じ込んでいるというケースが多いらしい。ただの思い込みのレベルではなく実際にそうである者として行動し、言動を行うという点に問題がある。

 

 先日のコヤッキースタジオの「シンジラレナイハナシ」の華頂殿下の話は嘘のオンパレードである。5人のロシア人の話はまさに「追跡妄想」に合致するし、話のすべてが誇大妄想である。↓

youtu.be

 

 具体例を上げたらきりがないが列挙してみよう

●ニコライ二世の一番下の娘は海軍が命を助けて横須賀で育てて東伏見家の嫁になっている

 

 ニコライ二世の第四皇女のアナスタシアは1918年7月17日に17歳でエカテリンブルクでロマノフ一家ごと処刑されている。生存説や救出説があったり、自称アナスタシアが何人も出現したりといろいろ疑惑があったが、現在では発掘された遺骨のDNA鑑定で皇帝一家が全員殺害されたことが科学的に証明されている。ニセ華頂殿下の妄想である。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

 

 また、華族の東伏見とは、東伏見慈洽(じごう)さんのことである。そもそも年代が合わないのだ。皇族時代は久邇宮邦彦(くによし)王の第3王子で久邇宮邦英王と言った。昭和6年に臣籍降下して東伏見邦英伯爵となった。久邇宮家なのになぜ東伏見なのかはwikiを読んで理解を深めてほしい。昭和28年に青蓮院門跡の門主となって法名を慈洽とした。平成26年までご存命であった。103歳没。当然ながら妻はニコライ二世の娘のアナスタシアなわけもなく、妻は亀井茲常(これつね)伯爵の次女・亀井保子である。例によって「おじいちゃんから聞いた話」で誤魔化しているがニセ華頂殿下が考えたウソである。ちなみに東伏見家は、慈洽>慈晃>光晋と男系が続き、東伏見光晋氏には2009年に男子がお生まれになっておられる。

ja.wikipedia.org

 

●宮内庁に呼ばれてから担当の警察官がついている 海上自衛隊とも繋がっている

 

 これは以前にも突っ込んだが、ありえない話である。ニセ華頂殿下の誇大妄想、血統妄想の一つだろう。例えば有名な竹田恒泰さんは長男筋ではないが立派な旧皇族の男系子孫である。しかし当然警官のSPなど付いていない。正統な華頂家の男系直系子孫の華頂尚隆さんにも当然だがSPは付いていない。系図に載っている正統な男系男子にもSPが付いていないのに、なぜ系図にも載っていない出自不明の老人に警察が予算を割いて警護を付ける必要があるのか? そんな予算は通るわけがない。完全に誇大妄想で血統妄想である。

 

 また、海自と今でも繋がりがあるとか言っているが、これもニセ華頂殿下の誇大妄想のひとつだ。元帥海軍大将だった伏見宮博恭王殿下の正統な直系子孫の伏見博明さんは横須賀の「三笠」に呼ばれたりするくらいのことはある。旧皇族というのは名誉職に推戴されたりするのは社会的な仕事のうちであるからだ。自衛隊のイベントに旧皇族を呼ぶことくらいあるだろう。しかし系図に載っていない怪しい人物と自衛官が公費を使って付き合う訳がないではないか。そんなことをしたら始末書顛末書の類を書かされ、何かしらの処分を受けるのは確実である。また、「歴代海上幕僚長はみんな河野の血筋」とも言っていた動画があったが、当然そんな事があるわけがない。幕僚長を血統で決められるのか? 何をバカなことを言うのか! ニセ華頂殿下の誇大妄想、血統妄想である。河野とは伏見宮貞愛親王の家女房(親王妃ではない)で博恭王の実母の河野千代子のこと。この河野を名字が同じと言うだけで河野水軍と結びつけたり、都合のいいように何でも解釈してしまうのが誇大妄想、血統妄想なのである。

 

記念艦「三笠」復元50周年記念式典 伏見博明さんと東久邇信彦さん

 

●外国の要人がこっそり会いに来る ビル・ゲイツ、ロシアの副大統領の娘、トランプ大統領、、、、 本当かどうかわからないから警察に出して裏を取る。。。

 

 ビル・ゲイツと会談したらツーショット写真撮るでしょ普通。自分を偉く見せたいニセ華頂殿下ならなおさらでしょ。そしてSNSに貼っちゃうでしょ。そんな写真はこの世に存在しない。この動画を見てほしい。元ヤクザのKEIさんのチャンネルに出たときのものだ。「話してないけど目で言ってた」とちゃんと言っているでしょ。もう完全に誇大妄想である。現在のニセ華頂殿下ならまだわかるが「研究中」のニセ殿下なんか日本人ですら誰も知らないだろうに何でビル・ゲイツが知ってて連絡してくるんだよって話。もう完全に「妄想性障害」の誇大妄想で、本人は何の悪気もなくそれを事実だと信じ込んでしまっているのである。それが問題なのだ。

 

youtu.be

www.youtube.com

 

 

●月間ムーの三上編集長が言っていたけどユダヤ人で華頂さんを知らない人はいない

 

 ムーの三上くんが言ったとしても、それは冗談とかおべんちゃらの類なのは誰でもわかるだろう。三上くんは筑波大学で素粒子物理学を学んだ本当は非常に頭がいい人で、当然ニセ華頂殿下を本物だとは思っていない。彼もビジネスで利用し相手をしているだけなのだ。「ユダヤ人で華頂さんを知らない人はいない」これを真面目に信じるやつがどこにいる? はっきり言ってユダヤ人の誰も知らないだろう。このように自分に都合のいい言葉は言質に変換されてしまい拡大解釈し、いつしか真実だと思い込み確信に変わっていくのである。これが「妄想性障害」の誇大妄想の怖さである。本人には悪気は一切ないのだから。

 

●旧約聖書はほぼ日本の話し

 

 こんなこと言ってると本気でユダヤ教徒やキリスト教徒に怒られるぞ! どこからどう読んでもカナン地方で、現在のパレスチナやエジプト、イラクあたりの中東の話だ。聖書に書かれている地名がバッチリ現在でもそのまま続いているのがわからんのか。どこに日本の事が書かれているというのだ。私が思うにニセ華頂殿下は旧約聖書すらまともに通読したことがないのだと思っている。ちゃんと読んでいれば日本なんて言葉が出てくるはずがないのだから。

 

 

 さて、一通り「シンジラレナイハナシ」でのニセ華頂殿下の妄想を書き連ねてみたが、今私が考えているもっとも真実に近いであろうストーリーを書いてみたいと思う。

 

 

 ニセ華頂殿下はよく「おじいちゃんから聞いた話」という前置きでウソ話をする。「父から聞いた話」は極端に少ない。これを考えると、どうやら祖父も妄想性障害の誇大妄想癖だったのではないかという推測が成り立つ。祖父は、言うまでもなく元皇族の華頂博信ではなく「岡崎秀夫」であるが、岡崎秀夫は自分が皇族の博信王(華頂博信)だと思いこんでしまっていたのではないだろうか。そして、妄想性障害は孫であるニセ華頂殿下=岡崎祐一にも隔世遺伝したのではないだろうか。統合失調症は遺伝による影響が大きいことが医学的に証明されている。統失患者の親から生まれた子供の発症率は10倍に上昇するとの記事をいくつか読んだ。

 

 父の博祐もニセ華頂殿下の話だと映画もののけ姫をテレビで見ていて「おい、それ言っちゃっていいのかよ!」とかいう「皇族しか知らない事」の話をしていた事があった。これがニセ華頂殿下のウソ発言ではなく本当の事実だったとしたら、父の博祐も妄想性障害で自分を華頂博信の子供だと思い込んでいたフシがある。もしかしたら妄想性障害の祖父から、お前は博恭王の孫だぞなどと吹聴され続けていたのかもしれない。勝手な想像で妄想性障害と決めつけるのはもちろん良くない。だが、数々の状況を勘案すると、そう思えてしまうのである。

 

 祖父の出生地を鞆の浦と公言しているが、博信王が生まれたのは東京三田にあった華頂宮邸だし、伏見宮と鞆の浦は縁もゆかりもないのに鞆の浦にも博恭王の伏見宮別邸があったとも言っている。当然そんな事実はない。これは恐らく祖父の秀夫が鞆の浦の生まれで、まだ子供だったニセ華頂殿下にウソを教え込んだのではないかと思う。祖父も妄想性障害だった場合はウソではなく真実として教えたのだと思う。

 

 ニセ華頂殿下が過去に自分でネットに書き込みした祖父の戸籍住所は「広島県沼隈群(ママ)鞆町字後地994番屋敷」である。鞆の浦のある福山市は昭和20年に米軍の大空襲を受けて市街地が8割消失している。その戦火で戸籍が消失してしまったために戸籍に「再製」のスタンプが押されているのではないだろうか? 鞆町が福山市に編入されるのは昭和31年なのでこの推測は怪しいが。いわゆる「背乗り」をしたとは私は考えていない。

 

 私はニセ華頂殿下の「皇族なりすまし設定」という表現で過去の記事を書いてきた。

 

曽祖父 伏見宮博恭王

祖父 華頂博信(伏見宮博信王)

父 華頂博祐

自分 華頂博一

 

 というのが脳にご病気があるニセ華頂殿下の中でもはや事実となってしまっている系譜だ。だが実際は過去にニセ華頂殿下がSNSで自分から暴露してしまっている、

 

曽祖父 岡崎卓伍

祖父 岡崎秀夫

父 岡崎博祐

自分 岡崎祐一

 

 これが実際の系譜なのである。遺伝的に妄想性障害が持病の家系だったとしたら? 本当にこれは最後まで書きたくなかったことだ。統合失調症は昔は「精神分裂病」と呼ばれていた。統合失調症と呼ばれるようになったのはつい最近の2002年からだ。精神分裂病とはまさに悪い病名の典型である。軽い症状でも一旦そう診断されてしまうと周囲からの偏見がものすごいし、ネガティブな病名で患者本人や家族への悪影響も大きい。

 

 統合失調症と病名が変更されてからはネットでは「糖質」などと隠語で使われることが多いが、糖質ももはやネガティブなイメージが付いてしまっている。だから私は岡崎さんに対して糖質とは決して最後まで言いたくはなかった。だが、何度も述べてきたように、数々の状況証拠がそう物語っているし、ご病気なのは真実だと私は感じている。

 

 慢性的な妄想性障害の完治は難しいそうだ。でも適切な投薬と長期の療養で症状はかなり落ち着くらしい。私は医療はもちろん専門でもないし、軽々しいことは言えないのは重々承知だ。だが私が真剣に言いたいのは、岡崎祐一さんの周辺にいる人々に対してである。どうか岡崎さんの出自をいい加減に扱わず、完全に調査して、あなたは本当は皇族の血筋でないことと、妄想性障害で血統妄想であることをお伝えいただき、岡崎さんに適切な治療を受けるよう進言してほしい。妄想性障害患者を利用して詐欺ビジネスの片棒を担いでいる人たち、どうか岡崎さんを休ませてあげてください。お願いします。

 

 先日、華頂宮チャンネルの登録者数が10万人に達した。私が「華頂信者」と言っている人たちは単純に殿下の語る都市伝説が面白いと感じているのだろう。だが、あなた方は自分で華頂殿下が本当に旧皇族の血筋だと調べたのか? 何も調べずに妄信していないか? 殿下に対して本当に華頂博信のお孫さんだと戸籍で証明できますか?と聞けるのか? 妄想性障害による血統妄想だとしたら本人はいたって真面目に自分が皇族だと思い込んでいるし、人を騙そうとは毛頭思っていないだろう。病気なのだから仕方がない。病気には罪はないのだから。だけど、殿下や先生と持ち上げて、本人をさらにその気にさせてしまっている(病状を悪化させてしまっている)のはあなた方でもあるのだ。

 

2023年12月8日加筆訂正(統合失調症の陰性症状が見られず、妄想のみが続く病気「妄想性障害」に修正しました)